昭和四十三年九月六日夜の御理解


 それは、一つの理想像ね、私どもは どこまでも何といってもあの三代様のもう完璧無比と思われる様なお取り次ぎ者としてお手本がございますが、けれども、先生金光様の先生の申してもさまざまのがあります。私のある先生なんかはもう夫婦喧嘩しているので有名なんです。それはもう奥さんは色々黒々としておられますが****な感じの方です。ご主人もところがその後がスパートしとるらしいですね。それが評判になってやっぱりお参りがある。先生金光様の先生もそういうところもありますよ。また、それこそさまざまな言うなら、金光様の御信心、いわゆる三代様の御決心を一つの手本とするなら、その手本から、こうはみだしたり、足りなかったりするばかりでございます。けれど、私は今の現在の金光様はそれが標準だとまあ、標準と言うか、それが本当だというふうに決めるところに金光教の信心がますます深くなっていくような感じが致しますけどね。言うならば、教師風に神にもおけんと言う人でもそこに何か神様に交流するような者がある証拠に、教会が立ち行き、又は、信者が助かっていっている事実がある。もうこれがなくなったら、おしまい。今日その事実があるとするならば、それもやはり金光様の御信心いうならば、天地金之神という神様の一つの御性格というものがです。その中にあると私は思います。信者の中でもそうです。もう決してこげんあって来れるとよいけれど、それは思います。子供の中にもそう思います。けれど、それではね、ここで子供が私とおりになってばかりだったら、もう私以上なことは出来ません。信者でもそうこの人ばっかりは言うことを聞かない信者があってです。なら、この人と私の枠と言うものから、手が出たり、足が出たり、こうやってしておりますけれども、それをいよいよ限りなくそれを美しい心でね、それこそ先程私が申しますように私がお詫び致しますから、私が修業いたしますからとその出たり、入ったり、しておるとまた包含していくような中から私の信心はいよいよ大きく豊かに内容が詰まってくるでしょう、と言うてお話しをしたんです。なるほどそうですね。確かに末永先生の生き方、あり方、なるほど人が立ち止まって見るくらいなものを頂かせるということがありがたい。けれども、それだけが教師ではない。それだけがお道の信者じゃない。あの人はあの人のすばらしいところあの人はあの人のこれはどうも出来ない困ったものを持っておることもあるけれどもそれを一つにして包含、そこに私は取り次ぎ者の一つの責任と申しましょうか、取り次ぎ者の信心を今朝の御理解からこう思い比べて感じます。自分の信心の性格じゃない。ありのままの信心じゃない。だと言うて言うたら、本当に切られてしまう。それこそ大根切るようにみやすう切って捨てられるようなことになりましょうけれどそこんところを取り次ぎ者がですね、いよいよ豊かな大きないわゆる天地の親神様と言う神様はそんなけちな神様じゃあない。場合によっては天理教的なこともあってもよい。お稲荷様的なことがあってもよい。御霊様を拝む専門の物があってもよい。本当に御理解力を持って助かっておるこれだけが金光教だけじゃない。天地の親神様と言うのは大きな働きの中にお懐の中に一切を包含おって下さってあるのであるから、それを金光教はかくなければならんというて本部が教務所がその枠に入れようとすると金光教はいよいよこもうなっていくと言うことを今日末永先生に聞いて頂いたことでございます。けれども、これは、合楽自体の事であって又今朝の御理解から、思うてみてもです。そう大根切る様にスバスバ切られたんじゃあかなわ。そこで、親として又取り次ぎ者としての信心がある。同時に又皆さんの場合だっても同じこと、信心のしるしをしておかなければいかん。しだめをしておかなければいかん。何時どういうことになるか限らんのである。そして、どこかに取り次ぎ者との交流をやはり持っておれなければならない。そこに取り次ぎ者がいよいよ豊かに大きく私が変わりに修業させてもらう。私が変わりにお詫びさせて頂くといった様なものがです、あって、いわば、切られなければならない人でも切られんですむ。その中にわかるところがわからしてもらい、又お役に立つ信者として又は取り次ぎ者としておかげを頂ける。次の場が与えられる事になるかと言うふうに思うのですけれど、どうぞ一つのおかげを頂きましてから金光様の信心はそんな小さなものじゃない。大きな信心と言うてそんなら、めいめいがのほうずになれと言う意味じゃあありません。生まれ、そして育てられることは神様としてもやっぱり****をかけられねば出来ることじゃないがせっかくここまで育てたのにこれから、夢が止まり、そこから、折れる。これは神様の悲しみである。どこまでも、これが*ぶいていかねばならない。*の悩んでおるところはそこは言うならば、取り次ぎ者の信心によって次のいわゆるヒントを頂かしてもらえるようなチャンスをもらうてのおかげを頂いていかねばならない。お互いがね、そういう意味合いでまあ横のつながり、お互いの信心の共励しあい手を取り合ってそして誰の事は彼が願い彼の事は誰が祈ると言うように祈りおおて私はおかげを受けて行かねばならんと思います。今朝の御理解から、そして今日末永先生とお話しさせて頂くときにお話しさせて頂いて新たに気づかせて頂いたこと。今日はある方まあ、ある方と言うようりも上野愛子さんお届けに参りまして今度嫁に入っとりました。それが都合が悪く帰っております。その事について非常に人を恨んでおる。(切れる。)